<上野家の発祥と歴史について>
 
 大航海時代の国家は50年のサイクルで衰退をくりかえしたが、都市の盛り場や商店街は25年サイクルだといわれる。本田正純の都市計画以後、本郷町は、何度かの大火の後のリニュ−アルによって息を吹き返した。店の売り物は変化したが、顧客は常に宇都宮の町民と周辺地帯の農民であった。上野本店の場合、その祖先は越後(新潟県)の生まれである。江戸中期(1757年)、越後は2度の飢饉に見舞われた。生活に困った人々が職と食物を求め、多くの越後人が民族の大移動のように郷里を捨て、雪深い北陸の地から温暖な下野の国に流れてきた。会津、田島、鬼怒川、今市と会津街道には新潟出身の古い商家が多いのも、そのような歴史的背景があったからだともいわれている。
 初代吉右衛門は、明和5年(1768)に宇都宮で家を興したということになっているが、発祥の地は今の泉町(昔の本郷町3丁目)ではなく材木町の六道あたりだと推定される。初めは油屋ではなかったといわれ、初代油屋は2代後で、現当主の上野泰男氏はその8代目にあたる。
 初代松次郎が「油屋」を名乗るのは、行灯に使う菜種油を製油することに始まる。
さらに副産物の油粕を肥料として農家に売り、店の経営基盤が固まったという。これは江戸時代から明治の初期にかけてのことである。上野家は徳川末期から明治にかけて女系が続き、5代目となった松次郎は千葉の銚子から婿養子として迎えた。肥料販売で鰯粕などを購入していた関係上婿だけではなく、時には番頭さんまで一緒に連れてきたそうである。家系というものは7代以上続くことはない。徳川家も7代家継の夭折で紀州の紀伊家の三男吉宗が8代将軍となり徳川中興の祖となった。日光参詣の道によれば日光社参は寛文3年(1663)まで6回行われたが以後は莫大な経費に耐え切れずに中断。享保13年(1728)吉宗の代にようやく復活した。質素を旨とする社参であったが、吉宗の社参は、総員13万3000人で、人足22万8306人、馬32万5940疋にのぼる。まことに入り婿の強腕である。
 上野本店の8代目当主は控えめの方で、初代先祖のことも名もない人だという。通常は誇大化したがる傾向にあるのに、それをしない。しかし事業展開は、肥料農業資材、建築の内装材、ビジネスホテル、IBMのコンピューターの販売会社と多彩である。しかも実子がないために三番目の弟さんから養子を迎えている。徳川家ではないがこれからも末永く続くことであろう。
[資料:宇都宮の歴史文献(1996年)より抜粋]