松寿苑の記憶
-七代目・上野俊三 直筆記録より-
七代目・上野俊三が生前に書き残した、
松寿苑に関する直筆記録。
そこには、
明治期の庭園造成、
政財界人たちとの交流、
戦火による焼失、
そして戦後復興へ至るまでの記憶が、
当事者の言葉として静かに綴られている。
松寿苑とは何であったのか。
その記憶を、
俊三自身の筆跡からたどる。
はじめに
松寿苑。
それは、
かつて宇都宮の人々にとって、
「祝いの日」
の記憶とともに
存在した場所であった。
結婚式。
祝宴。
接待。
地域の集い。
松寿苑には、
時代ごとの人々の営みと、
上野家が見つめ続けた
地域の歴史が
静かに積み重なっていた。
本稿は、
七代目・上野俊三が
晩年に直筆で書き残した
「松寿苑」に関する記録をもとに、
その生い立ちから、
戦火、
再建、
そして戦後へ続く歩みを、
できる限り原文に忠実な形で
整理・解説したものである。
そこには、
家族も知らなかった
数々の記憶と、
時代を生き抜いた
一つの空間の歴史が残されていた。
【上野俊三直筆の「松寿苑」資料】
七代目・上野俊三直筆による、
松寿苑の生い立ちから、
その後の変遷、
松寿苑に関わる数々の出来事
を記した貴重な記録。
※資料1ページ目を抜粋。
第一章 松寿苑のはじまり
松寿苑の起源は、
明治三年にさかのぼる。
三代目・上野松次郎(幼名・栄次郎)が、
宇都宮四丁目の武家屋敷跡地を購入し、
別邸として整備を始めたことが、
その始まりであった。
敷地は、
およそ一千坪。
当時としては
非常に広大な敷地であり、
庭園には池泉、
築山、
雪見灯籠、
五重塔などが配され、
本格的な日本庭園
として整えられていった。
さらに、
上野不忍池周辺の
庭園を手掛けた庭師にも作庭を依頼し、
数寄屋造りの茶室や庭園空間は、
時代を超えて人々を魅了する、
宇都宮有数の別邸
として育っていったのである。
そして、
こうして整えられた別邸は、
やがて単なる家族の憩いの場
という枠を超え、
近代日本の歴史を動かした
人々が集う、
大いなる社交の舞台
となっていく。
その決定的な出来事が訪れたのは、
明治二十五年十一月のことであった。
当時、
両毛の地では
陸軍大演習が行われており、
上野家の別邸は、
陸軍の大御所総帥であった
山県有朋大将の宿舎として
使用されることとなったのである。
これを機に、
別邸には
当時の貴族や高官たちが
頻繁に出入りするようになった。
なかでも、
元徳島藩主であり、
後に貴族院議長、
さらに東京海上火災保険初代頭取を務めた
蜂須賀茂韶侯、
そして衆議院議長・大岡育造氏らは、
特に親しく訪れていたという。
俊三の記録には、
当時の様子について、
「囲碁やお茶の湯を
楽しんだ様子であった」
と静かに記されている。
偉人たちが、
庭園を眺めながら囲碁を打ち、
茶室で静かに茶を楽しむ。
その光景を想像すると、
明治という激動の時代の空気が、
今もこの場所に
残されているようにも感じられる。
そして、
ある日のこと。
蜂須賀侯が
庭に佇む茶室をご覧になり、
「この茶室には、
まだ名前がないのか」
と尋ねられたという。
名前がないことを知った侯は、
その場で筆を執り、
「余樂庵(よらくあん)」
という、
極めて風雅な名を
与えてくださった。
さらに、
侯自ら揮毫した扁額も贈られ、
それは上野家にとって、
かけがえのない家宝
となったのである。
また、
山県有朋大将をはじめ、
蜂須賀侯、
大岡育造氏、
その他当時ここを訪れた
貴族高官たちの書幅(掛け軸)が、
現在も数多く遺されているという。
それらは、
激動の明治期、
この別邸に集った人々が、
実際に筆を走らせた
「生きた証」であり、
松寿苑が
単なる地方の別邸ではなく、
近代日本の社交文化の舞台
であったことを、
今へ静かに伝えている。
さらに、
俊三の記録には、
次のような印象的な
記述も残されている。
「明治三十二年夏、
別荘に伊藤博文公が見えられた」
当時、
伊藤博文公より、
「春畝書
於宇都宮客舎
春敵閑客圞」
と記された揮毫を頂戴し、
その額は、
長く玄関正面に
掲げられていたという。
日本近代国家建設の
中心人物であった
伊藤博文公の揮毫が、
この松寿苑に残されていた
という事実は、
当時の上野家と松寿苑が、
単なる地方の別邸ではなく、
国家中枢とも深く接続した
文化空間であったことを、
今に物語っている。
三代目・上野松次郎が蒔いた
「おもてなし」の種は、
こうして、
国家の重鎮たちを迎える
誇り高き「余樂庵」の歴史として、
大きく花開いていったのである。
第二章 二度の火災と再建
松寿苑は、
その長い歴史の中で、
二度の大きな火災
に見舞われている。
最初の火災は、
大正十二年。
東京大震災の影響による延焼であった。
しかし、
この時は比較的被害が少なく、
再建も比較的早く進められた。
だが、
昭和十二年八月。
松寿苑は、
再び大火に襲われる。
当時、
六代目・上野松次郎夫妻は、
小田原へ避暑に出ており、
邸内は留守となっていた。
そこへ、
空き家となっていた
別邸へ入り込んだ浮浪者の
焚火が原因となり、
火災が発生したという。
さらにその日は、
宇都宮市街地で発生した
旭町大火と重なり、
消防車は
市街地消火へ出動していたため、
松寿苑への対応は遅れた。
火は瞬く間に燃え広がり、
貴重な書画骨董、
調度品、
建築物の大半が焼失した。
しかし、
奇跡的に、
茶室「余樂庵」
のみは焼失を免れたという。
この出来事は、
俊三の記録の中でも、
特に強い筆致で記されている。
第三章 六代目・松次郎による再建
昭和十二年の大火によって、
松寿苑は大きな被害を受けた。
貴重な書画骨董、
調度品、
そして長年守り継がれてきた
建築群の多くが灰燼に帰した。
しかし、
そのような状況の中でも、
六代目・上野松次郎は、
松寿苑の再建を決意する。
しかもそれは、
単なる復旧ではなかった。
「以前を超える松寿苑をつくる」
という強い意思のもと、
再建計画は進められていったのである。
そして、
この再建にあたり、
上野家に今も語り継がれる、
ひとつの印象的な出来事が起こる。
それは、
家相や方位をどのように定めるか、
という時のことであった。
実は、
六代目・松次郎の妻
である「上野まさ」は、
若き日に
元高輪の竹田宮家に仕えており、
宮家が居を移された後も、
引き続き長年お仕えしていたという、
非常に深いご縁をいただいていた。
そのため、
まさはその後も毎年春になると、
新年のご挨拶(近気元伺)のため、
宮家へ上がっていたという。
その折の会話の中で、
まさが、
「宇都宮の別邸が
火災で焼失してしまいまして……」
と話したことが、
今回の大きな転機となった。
竹田宮家の宮様は、
お子様(後の竹田恒徳王)とともに、
毎年夏になると
日光へ避暑に赴かれていた。
その道中、
お子様はお忍びで、
四條町の上野家別邸へ
遊びに来られていたという。
庭園、
池、
築山、
自然豊かな遊び場。
宮様は、
その生き生きとした
別邸の風景を、
深く記憶されていたのである。
思い出の詰まった松寿苑が、
火災によって失われたことを
深く憐れまれた宮様は、
「それならば、
宮中で使用している
特別な方位図(家相図)を貸してあげよう」
という、
この上なく有り難い言葉を
かけてくださったという。
こうして
宇都宮へ届けられた方位図は、
三尺×四尺(約90cm×120cm)にも及ぶ、
巨大で厚手の和紙に描かれた、
極めて格式高いものであった。
それは、
宮中において
大切に扱われていた、
特別な家相図であったという。
まさが長年にわたり
誠実にお仕えしてきた信頼が、
皇室との縁をつなぎ、
再建される松寿苑へ
「宮中の格式」という
大きな加護をもたらした瞬間でもあった。
六代目・松次郎は、
この方位図を
畏敬の念をもって拝借し、
その位置に厳格に従いながら、
再建計画を進めていった。
さらに、
設計には
近代建築家・土浦亀城
が関わったとされ、
建物配置も、
この宮中方位図を基準として
再構成されたという。
京都からは棟梁を招き、
地元・古賀志山系の檜材を使用。
庭園には、
池、
築山、
雪見灯籠、
五重塔なども再整備され、
松寿苑は、
戦前宇都宮を代表する
数寄屋建築として、
再びその姿をよみがえらせていった。
……そして、
こうして誕生した
新しい松寿苑には、
当時の日本建築、
造園技術の粋と、
最高峰の用材が
惜しみなく注ぎ込まれていた。
新しい母屋の「鶴亀の間」には、
木曾の本木四方柾が用いられ、
床柱には
京都北山の天然絞り丸太が
静かに佇んでいた。
寝室である「梅竹の間」には、
北山丸太の面皮柱が美しく配され、
さらに屋敷をつなぐ廊下には、
古賀志の山から切り出された、
節ひとつない
檜の無ふし材が
贅沢に敷き詰められていたという。
それは、
戦前の日本だからこそ
集めることのできた、
まさに奇跡のような
最高級の木々たちであった。
また、
母屋を包む回遊式庭園には、
全国の名石が集められていた。
玄関前の池には、
京都「貴船」の銘石や、
伊予の水石が組まれ、
縁側の手洗石や沓脱石、
さらには庭園中央の
井桁に至るまで、
見事な鞍馬石が用いられていた。
池のほとりには、
日光・小来川から運ばれた
名石「くろぼく」の山灯籠が据えられ、
その自然な鼻穴の造形は、
ほとんど人の手を加えぬまま、
美しく活かされていたという。
さらに別館には、
富士の溶岩石である
巨大なくろぼく石も据えられ、
圧倒的な存在感を放っていた。
明治二十五年に
宇都宮城内から移築された
茶室「余樂庵」と、
これら全国の銘石が
一体となった庭園空間は、
単なる邸宅ではなく、
上野家が代々受け継いできた
「本物の美意識」
そのものの結晶であった。
それは単なる再建ではなく、
失われた空間を、
人の縁と信頼、
そして美への執念によって、
新たに未来へつなぎ直した
営みでもあったのである。
第四章 戦争と松寿苑
戦時中、
松寿苑には、
白金師団関係者らも
宿泊したという。
しかし、
戦況が悪化すると、
宇都宮にも空襲の危機が迫る。
松寿苑では、
庭園内に防空壕を整備し、
家族はそこで空襲をしのいだ。
俊三の記録には、
防空壕の様子や、
空襲下の緊迫した状況も
詳細に残されている。
衣服が燃え、
命からがら逃げ延びたこと。
深い池の水が、
防火にも役立ったこと。
そして、
奇跡的に母屋が焼失を免れたこと。
そこには、
戦火を生き抜いた人々の、
生々しい記憶が刻まれている。
第五章 戦後、そして「祝いの日」の場所へ
終戦後、
松寿苑は
GHQによる接収も経験する。
しかし、
その後、
再び地域へ戻されると、
松寿苑は
新たな役割を担い始める。
結婚式場、
披露宴会場、
宴会場
としての活用である。
かつて、
政財界人の社交空間
であった松寿苑は、
戦後、
宇都宮市民の
「祝いの日」
を支える場所へと姿を変えていった。
……昭和二十九年十月、
六代目・上野松次郎は、
この松寿苑の地で、
波乱に満ちた生涯を閉じた。
その後、
広大な別邸には、
妻・まさが、
お手伝いの方を頼みながら
静かに暮らしていたという。
しかし、
戦後の混乱期。
日本経済が疲弊し、
あらゆる事業の経営が
困難を極めるなか、
女性一人で
この広大な別邸を維持していくことは、
極めて厳しい現実でもあった。
それでも、
まさは、
この屋敷を何とか守り、
地域のために活かす道はないかと、
静かに模索を続けていた。
そして辿り着いた答えが、
「結婚式場」としての活用であった。
昭和三十年当時、
宇都宮市内には、
本格的な結婚式を行うための施設は、
まだほとんど存在していなかったという。
そのなかで、
この歴史ある庭園と建物を、
人々の門出のために
開放するという決断は、
まさに時代を先取りした
挑戦でもあった。
後に広く知られることとなる
「ブライダル産業」。
その黎明期において、
松寿苑は、
宇都宮における
先駆的存在の一つであったのである。
「松寿苑」の名のもとに始まった式場は、
やがて三階建ての新館、
舞台付き大広間なども増築され、
数え切れないほどの家族の笑顔と、
新たな人生の門出を祝う
場所へと成長していった。
そして昭和五十九年十月。
新築された足利銀行本店より、
俊三のもとへ、
「松寿苑の生い立ちについて教えてほしい」
という照会が届く。
地域経済を支える銀行が、
松寿苑の歴史をそこまで大切に
思ってくれていたことを、
俊三は深く嬉しく感じたという。
そして、
「記憶が薄れてしまう前に、
今のうちに書き残しておこう」
そう思い立ち、
俊三は一気に筆を執ったのであった。
この『松寿苑』の記録は、
まさにその時に書き上げられたものである。
形は変われど、
三代目が蒔いた
「おもてなし」の心。
五代目の不屈の闘志。
六代目と「まさ」がつないだ人の縁。
そして、
松寿苑に集った
人々の祝福の記憶。
それらはすべて、
俊三が残した
この直筆記録とともに、
今も静かに、
上野家の歴史の中で
生き続けているのである。
【松寿苑創業期のパンフレット】
「旧上野松次郎別邸」
上野家の歴史空間は、やがて宇都宮市民
の祝宴文化の舞台となっていった。
「かつて政財界人を迎えた松寿苑は、
戦後、
人々の“祝いの日”を支える場所へと
姿を変えていった。
結婚式、
披露宴、
人生の門出。
時代が変わっても、
そこには変わらず、
人々を迎え入れる
“おもてなし”の心が
息づいていたのである。」
第六章 ホテルサンシャインへ続く流れ
戦後復興を経て、
上野家はさらに
新しい都市空間づくりへ挑戦していく。
その流れの先にあったのが、
ホテルサンシャイン事業であった。
俊三資料には、
松寿苑の流れが、
単なる旧来型料亭文化
で終わるのではなく、
都市型ホテル文化へ
接続していった過程も見えている。
つまり松寿苑とは、
別荘
茶室文化
迎賓空間
料亭
結婚式場
ホテル文化
へと姿を変えながら、
時代ごとの役割を
担い続けた存在であった。
【松寿苑別館の紹介パンフレット】
ホテルサンシャイン新館増設時に作成された
パンフレット。松寿苑別館のご案内記事。
むすびに
七代目・上野俊三は、
松寿苑を単なる建物としてではなく、
上野家と宇都宮の歴史そのものとして
記録し続けていた。
その直筆資料には、
建物の歴史だけでなく、
人々の記憶、
庭園への愛情、
時代への眼差し、
戦火の記憶、
再建への執念、
そして人々を迎える
「もてなし」の思想が、
静かに刻まれている。
松寿苑とは、
単なる
別荘、
料亭、
結婚式場、
の歴史ではない。
それは、
時代の変化の中で姿を変えながら、
地域文化を支え続けた、
ひとつの文化空間であった。
そして今、
俊三が残した記録によって、
松寿苑の記憶は、
再び静かに
よみがえろうとしている。
【松寿苑外観写真】
宇都宮市民の「祝いの日」には、
いつも松寿苑があった。
【上野俊三直筆の「松寿苑」資料】
七代目・上野俊三直筆による
「松寿苑」資料の最終ページ。
編集後記
今回公開した
『松寿苑の記憶』は、
七代目・上野俊三が
生前に書き残した、
貴重な直筆記録をもとに
構成したものである。
そこには、
単なる建物や
事業の記録ではなく、
時代を見つめ続けた
一人の記録者としての視点、
そして、
「家」と「地域」を
守ろうとした想いが刻まれていた。
庭園の風景、
戦火の恐怖、
焼失と再建、
祝宴の日々。
その一つひとつが、
松寿苑という場所を通じて、
上野家の歴史
そのものとして語られている。
本稿では、
できる限り
原文の空気感を損なわぬよう、
俊三の記録を尊重しながら
整理・構成を行った。
この記録群が、
未来へ向けて、
地域の記憶を継承する
一助となれば幸いである。
時代へ継ぐメッセージ
建物はいずれ姿を変える。
時代もまた、
必ず移り変わっていく。
しかし、
人が何を大切にし、
どのように時代を生きたのか
という記憶は、
記録され、
語り継がれることで、
次代へ残されていく。
松寿苑もまた、
その一つであった。
祝いの日、
人が集った日、
戦火を生き抜いた日。
その積み重ねの中に、
上野家の歩みがあり、
宇都宮という
地域の歴史があった。
七代目・上野俊三
が遺した記録は、
単なる回想ではない。
それは、
「記憶を未来へ手渡そうとした記録」
なのである。
松寿苑(番外編)
松寿苑について資料を整理していると、
上野俊三が生前残した数々の松寿苑に関する
資料が発見された。
本記事においては、全てをご紹介することは
できなかったが、
今回は「松寿苑(番外編)」
として、数々の資料群、写真群他
を特別番外編として紹介させて頂きます。
詳細な内容については、以下のリンクより
内容をご覧ください。
【関連特集記事】
▶『松寿苑(番外編)』ページへ
【本企画について】
本アーカイブは、
上野家に伝わる史料・写真・記録類をもとに、
歴史資料として再構成した特別企画です。
・文章構成・編集:歴史アーカイブ制作チーム
・史料提供・内容監修:上野拓也
(株式会社上野 代表取締役)